紀伊半島に棲息しています。


by housi216
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カテゴリ:振り返ってみるのもいいさ~( 8 )

同窓会~

土曜日の熊野古道「大辺路」の余韻も覚めやらぬまま、日曜日に高校の同窓会へ出席しました。
前日と同じ3時に目覚めて、熊野古道の写真の整理をしながら時間を潰します。
年を取ってくると、何かしなければならないとかいう時、特に楽しみにしている時とか朝の早くから目が覚めてしまって・・・。
会場は兵庫県の明石。紀伊田辺からスーパーくろしおに乗ります。
熊野古道の余韻が駅でも残っていました~
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3時から起きてたくせに、朝食を食べていなかったので・・・。
って、これが朝飯かい!?
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英語の先生の77歳(喜寿)と体育の先生の80歳(傘寿)の祝も兼ねての同窓会~
みんなそれぞれ近況報告などします。
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楽しかったな~
月日は時空を超えてあの頃の高校生へ一瞬に戻ります。
勉強もしていないから視力が良くて、3年の頃はなんかいつも後ろの席にいたような・・・。
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ほどよく酔がまわってきた頃に、場所を移して二次会はジャンカラへ~
青春の一こま、誰もが経験するワンパターンの片想いで終わる、いとしの君も来ていた。
少し疲れて見えたけど、大丈夫かな・・・。
卒業アルバム↑では同じクラスじゃなかったから写っていないけど。

まだまだ宴もたけなわだったけど、月曜日朝から仕事で和歌山市へ行かなければならなかったので、一足先に帰らせてもらいました。
しかし、芋焼酎をしっかり飲んで酔っぱらいだったので、東海道線を新大阪で降りて乗り換えるはずが、気がついたら京都を過ぎていて、京都まで戻って調べたけど、紀伊田辺直通がもう無くて、しょうがないので大阪まで引き返し環状線で天王寺へ~
なんとか最終の紀伊田辺までのに乗れました。
今度は5年後にという話があったのですが、80歳の先生が5年は生き延びる自信がないから、3年後にしてくれと~
3年後がまた楽しみです。
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by housi216 | 2010-06-03 23:51 | 振り返ってみるのもいいさ~

昔の日置~

昭和20年代頃でしょうか・・・。
過ぎてしまえばすべて古き良き時代なのかな・・・。
戦後大変な頃だったかもしれません。
食糧難で、耕せる場所があれば、畑を作っていたのがわかります。
でも、あの頃は日置の町は製材が盛んで、製材の会社がいくつもあり、町には活気がありました。
と、見てきたような事を言う。
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同じ場所から、今昔を撮れないかと以前チャレンジしたことがありますが、木が大きくなっていて写せなかった・・・。なんとかならないかなあ~
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by housi216 | 2008-12-06 07:03 | 振り返ってみるのもいいさ~

卒業の季節

謝 辞
 三年間の楽しい思い出、そして時には悩みや困難との出会いを経験しながら、きょうの卒業式を迎えた二六名の君達に、保護者を代表して心から『おめでとう!』の言葉を贈りたいと思います。
 校長先生をはじめ、諸先生方のたゆみないご尽力がなければ、この日をこうして迎えることは出来ませんでした。親として何と感謝を申し上げてよいか分からないほどです。
 ご列席の来賓の皆さま、お忙しい中、生徒たちのために、温かい励ましのお言葉を頂戴し、本当にありがとうございます。
 いま私の脳裏には、三年前の入学式のことが鮮やかによみがえっています。まだあどけなさが残る顔が、大きめサイズの制服を着て緊張した面もちで並んでいました。あの時とは見違えるほど、お兄さん、お姉さんになった君たちの顔をこうして拝見していると、これまでの色々なことが想いだされます。中一の夏、初めて自分らでチームを組んで出場した日置川ドラゴンボート大会で、まっすぐ進めずなかなかスタートラインに立てなかったこと、でもあの時は確か2チームが出場し、どちらかのチームが、一番若いチームという事で「若武者賞」をもらいましたね。体育大会や駅伝大会で頑張ってた様子。特に三年生の時の体育大会での活躍は素晴らしかった!それから三年間クラブ活動で頑張っていたこと。勝負は時の運ですが、頑張りは何処の学校にも負けていないと思いますよ!
 そうそう仏坂ウォークでは、杖をつきながら♪人生楽ありゃ苦もあるさ~♪と歌っていた様子が忘れられません。苦しい登りでもみんなひとつになっていました。
 みんなの元気な声が世界遺産の山の中に響き渡っていましたよ。
 最後の焼肉まで、お父さんお母さんたちとも付き合ってくれてありがとうね!他にも数え上げたらきりがないけど、みんなそれぞれがたくさんのことを学び、経験し、大きく成長されたことを実感しています。
 中学校の三年間は、人生の中でも最も急速に心も体も成長する時期なんだなあ、とあらためて思います。そんな大切な時期を、日置中学校で一緒に過ごせたこと、素晴らしい先生方や友だちと出会えたことは、これからの君達の人生でも、ずっと大切な宝物になるでしょう。 
 今日からは、進路もそれぞれに分かれていきます。自分自身で自分の将来を切り開いていく第一歩に立つわけです。きっと期待とともに多少の不安や、友だちと別れる寂しさも、君たちの心の中でふくらんでいることでしょう。長い人生の中では、むずかしい問題に突き当たることもきっとあると思います。しかし、そういう困難があるからこそ、人は成長もするんだと思います。自分を信じ、先生方の教えを思い起こし、友情を大切にして励まし合い、元気に新しいステップへ踏み出してください。
 三月、町の合併で、君達は白浜町立としての日置中学校の初代卒業生です。日置中の誇りを忘れずに、また共に悩んだり、励まし合った仲間を忘れないでください。
 最後になりましたが、校長先生はじめ諸先生方、これからもお元気で、生徒たちの行く末を見守っていただきますようお願いして、感謝の言葉に代えさせていただきます。
 平成十八年三月十日 保護者代表  ○△□×

昨年は、下の息子が卒業だった。
学級委員だったので、謝辞を述べなくてはならず・・・。(;^_^Aアセッ

拙い絵は、この子が保育所の時に書いた、お父さんから連想するもの~
小さい時からよくドライブに連れ出したり、山やマラソンなんかも一緒にやったなあ・・・。
今、お父さんから連想するものって書かせたらどんな絵になるんだろう・・・?!f(^_^;
20年後には、どう思ってるんだろう(=^^=)
私は、今でも自分のオヤジのことを一番尊敬しています。
平凡なオヤジだったけど。v(^-^)
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by housi216 | 2007-02-10 01:50 | 振り返ってみるのもいいさ~

東京と「僕の町」

息子が中三の時の作文~
なかなか、青臭くて鋭い。(;^_^Aアセッ

修学旅行で東京へ行った。そこは、僕たちが暮らす日置川町とは別世界だった。
まず、何といっても人が多い。駅には、だいたい三分おきで電車がはいってくるのに、いつも満員だった。道を歩いていても、少しよそ見をしただけで、仲間とはぐれてしまいそうなほどだった。
建物の数や、スケールにも驚いてしまった。何階建てか数えていられないほど高いビルなんて、僕たちの町には全く見当たらない。東京のオフィス街はよくテレビに映っているけど、実際に真下から見上げてみると、何だか違った感じがした。
その他、デパートの品揃えの多さ、交通の便利さ、人々の服装など、何をとっても、「田舎者」の僕の目には新鮮に映った。
けれども、三日間の修学旅行の中で、僕はどうしても東京を好きになれなかった。
街の人たちは、何か見えない力に引かれているかのように、少しうつ向いて、せかせかと急ぎ足だった。人々の表情は微妙に曇っていて、そこから、普段の、時間に縛られた生活に対する、ストレスが伝わってくるような気がした。
そのままの形で残っている自然が、あまりにも少な過ぎたのも残念だった。都庁の展望台から東京の街を眺めることができたけど、見渡す限り灰色の高層ビルばかりで、それらのわずかなすき間に、豆つぶぐらいの緑が見えるだけだった。遠くの方の空は、スモッグでぼんやりかすんでいた。
日置川町には、高い建物もデパートも、地下鉄も何もない。そのかわりに、季節によって表情を変える山。泳ぐことのできるきれいな川。青く、大きな海がある。夜には、手が届きそうな素晴らしい星空を見ることもできる。
昔は、首都東京にも、美しい自然がたくさん残っていたのだと思う。しかし、いつからか人々は、自分たちの目の前にあった快適さだけを追い求めるようになったのだ。森を削り、川を汚し、海を埋め立てながら、人はいったい何を手に入れたのだろうか。それは、複雑な社会と、やり場のないストレスだけだと思う。
どうしてみんな、都会へ行ってしまうのか。仕事をするため、より便利な生活をするため、など理由は人によって違うと思う。しかし、わざわざ人ごみの中で、情報だけに敏感になりながら、疲れをため込んでまで都会で暮らす意味は、果たしてあるのだろうか。欲しい物を手に入れることだけが、本当の幸せであるといえるのだろうか。僕ははっきり、違うと感じた。
今回東京を訪れ、「明るくて自由なところ」という、僕が持っていたイメージとは、少し違うことに気がついた。
三日間の旅を終えて、僕たちは日置川町に帰って来た。人の手の加わっていない、たくさんの青と緑が出迎えてくれた。人々の表情も、穏やかで明るかった。「これこそが人間の、あるべき姿だ。」と僕は確信した。

写真は、家の前の野道に咲いてた花~
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by housi216 | 2006-09-23 11:06 | 振り返ってみるのもいいさ~

『穂高に挑戦』

時代は2000年~
下の子が小学校4年生の時に書いたものです。

「おととしは日本一高い富士山。去年は二番目に高い北岳。今年はここしかないなあ。」
というお父さんの一言で、日本で三番目、北アルプスで最も高い山、奥穂高に登ることになった。
 八月十六日、沢渡に着いたのは午後十一時だった。
 八月十七日、ぼくはいつもより早く目がさめた。これから登る奥穂高のことを考えて、こうふんしていたからだろう。気温は十八度、顔を洗う水道水もこおるほどつめたかった。
 穂高に登るために、上高地というところへ向かっていたが、そこへの道は一般車両は通れない。しかたがなくタクシーに乗りかえた。
 上高地にはすごい数の人がいた。お父さんとお兄ちゃんを見失わないように必死で歩いた。
 途中、小休けいをとりながら横尾小屋に着いた。十一キロものきょりを歩いて、のどがからからになったので、ジュースを飲んだらとてもうまかった。
 しばらく行くと、本格的な山道が始まった。道はせまく、すれちがう時、かた方の人がよけないとぶつかるくらいだ。ずっと歩くと川原にでた。最高にいいけしきだったので、休けいすることにした。ぼくらはおにぎりを食べた。
「うっ、うまい。」
と言い、食後のジュースを飲んだ。北アルプスの雪どけ水で冷やしたから、
「つめたい。」
と思わずさけんでしまった。
ここから登りがきつくなってきて、はらがいたくなってきた。
「高山病か。」
と聞かれたけど、高山病には負けたくないと思っていたので、
「ちがう。」
と言いきって、どんどん歩いていった。
 と中で大きな岩のかべが見えた。びょうぶ岩というらしい。ものすごいがけを二人の人が登っていた。あんなところまでどうやって登ったんやろうと思いながら先へ進む。
 休けいをたくさんとったのに、体が思うように動かない。お父さんたちがはげましてくれてなんとか涸沢に着き、みんなで力を合わせてテントをはった。シュラフの中に入ると、明日のことで頭がいっぱいだったが、つかれきっていたので六時にはねてしまった。
 八月十六日、いよいよ頂上まで登れる。そう思うとわくわくしてきた。今日はテントにもどってくるので、必要な物だけをぼくのザックにつめ込み、お父さんがせおった。
 ごつごつした石がたくさんあったからすごくつかれた。ぼくたちは一歩一歩ふみしめて歩いた。三時間ほどで奥穂高山荘に着く。
「ここから三十分奥穂高山頂」と書いた物があった。元気がわいてきたぞと思ったが、一歩進むごとに力がぬけていく。ケルンがあったから「頂上や。」と思い、スピードを上げたがにせ頂上だった。ぼくはその時まるで山に「どうだ、まいったか。」とおちょくられていっるような気がした。「こんな山なんかに負けてたまるか。」と最後の力をふりしぼって歩いた。
 十時ちょうど頂上とう着。「奥穂高に勝った。」と思いながら写真をとってもらった。
「ついでに北穂高も登るか。」
と聞かれて、「はあ、また登るんか。」と思ったけど、口がかってにこう言ってしまった。
「おっしゃあ、登ったるぞ。」
涸沢岳への登りは、そんなに急じゃなかったから、三十分ほどで頂上に着いた。だが、ここからはものすごい坂やがけが多く、くさりで登るところもいっぱいあった。お父さんが、
「ここ登ったら頂上や。がんばれ。」
とはげましてくれた。その坂を登りきると、そこはもう北穂高の頂上だった。北穂高の頂上にある山小屋でバッジを買って、テントへの道を下った。テントは見えているから「スピード上げるぞう。」と思ったけど、なかなか着かない。おまけに十ぴきものハエが耳の中に入ってくる。おいはらえばよけいによってきた。
「ぼくはおまえらと仲良しになりたくない。」と思ったけど、どうしようもなかった。ようやく涸沢小屋に着き、夕ご飯にエビピラフを食べてテントにもどった。
 八月十九日、テントをかたづけ六時に出発した。今日は下山なので、かなりペースが速い。ふり返ると、ぼく達が登った山が遠くに見えた。お父さんが、
「心のファインダーに焼きつけとけよ。」
と言っていた。「バイバイ北アルプス。」
 上高地に着くと、人がすごく多かった。帰りに坂巻温泉に入ると、つかれがふっとんだ。山の帰りの温泉はすごく気持がいい。
 山登りは苦しいが、頂上に立つとなんともいえないうれしさがこみ上げてくる。これからもこのうれしさをわすれず山登りを続けていきたいと思った。
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【評】たいていの子どもたちが夏休み真っ最中に、海や川やプールで水遊びにむ中だったり、キャンプを楽しんだりしている時に、こうして北アルプスの穂高に登頂している彦太君のような小学生もいるんだとうらやましく思いました。
 登山は忍耐力のいるスポーツですが、三千メートル級の山にも登る彦太君はすごいね。そして彦太君に他の子にはまねのできないような体験をさせてくださるお父さんに感謝してほしいです。「心のファインダー」に焼きつけた数々の大パノラマ写真は、一生の宝物ですね。
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by housi216 | 2006-09-10 08:21 | 振り返ってみるのもいいさ~
時代は1993年~
上の息子がピカピカの小学校1年生の時に書いたものです。(=^^=)
ファミリーマラソン初出場。あの当時はバンビの部はなく、デビュー戦!\(^0^)/

『十一月十四日、日よう日、リバーサイドマラソン大かいで、ぼくは、はしりました。
 ばしょは、日き小がっこうのグランドです。
 スタートのところで、おとうさんが、
「びりでもかまへんで。一ねんせいなんやから。」
といったけど、ぼくは、
「そんなことはない。きっとまん中より上になってみせるぞ。」と、おもいました。

 そして、
「できるだけ、はようはしる。」
と、いいました。
 ピストルがなったので、おもいっきりはしりました。
 ぼくは、はしることばかりかんがえていたので、ピストルのおとが、小さくきこえました。
 おとうさんが、
「そんなにとばしたら、こうはん、ばてるぞ。」
といいました。
 スタートとちてんでは、
「こんなのかんたんや。」
と、おもいました。
 でも、それは、まちがいでした。
 日の出じんじゃのすぐそばから、くわがたのはさみに、はさまれたみたいに、おなかが、いたくなってきました。
「だいじょうぶか。」
「もうあかん。」
「なんや、しんどいのは、みんなおんなじやで。がんばらんかい。」
「がんばろうとおもっても、おなかがいたいんや。」
と、ぼくは、いいました。
「どのへんいたいんな。」
と、おとうさんが、いったので、
「ここ、ここ、ワニにかまれているみたいに、いたいんや。ああ、いたいよう。」
と、ぼくは、右わきを、おさえて、
「ハー。」
と、大きなこえを出したら、おとうさんが、
「そんなこえ、だしたら、ばてるぞ。」
と、いいました。
 ハーハーと、だんだんこえは、小さくなってきたけど、いきは、早くなってきました。
「よっしゃ、もうゆっくりいこう。あと、ちょっとや。」
と、おとうさんがいいました。
 ぼくは、たおれそうになったけど、「いや、そんなことはしない。ゴールまで、おもいきっていくぞ。」と、できるかぎりのスピードを、出しました。
 グランドに入ってきたとき、おかあさんが、カメラをかまえて、まっていたから、「あとすこしだ。がんばるぞ。」と、おもいました。
 でも、もう、本きを出すちからは出ませんでした。
 そしたら、
「もうすこしやろ。おもいっきりはしれ。」
と、おとうさんのはげましのこえが、となりのほうからきこえてきたので、ラストスパートで、はしりました。
 はしりたいスピードは、出せなかったけど、ひっぱってもらったから、すこしぐらい、らくでした。
「あと五十メートルぐらいだ。よし、がんばるぞ。」とおもいました。
 そのあとは、もう、なにもかんがえるひまがありませんでした。
「早く、ゴールにつきたい。」と、おもうばかりでした。
 そして、やっと、ゴールにつきました。
「まん中より、上かなあ。」
「たぶんな。それより、おなか、大じょうぶか。」
と、おとうさんが、いいました。
「なんとかね。」
と、ぼくは、いいました。
 しんどかったけど、かんそうできて、うれしかったです。
 三ねんせいになったら、一いをめざそうとおもってます。 』

【評】 おなかが、クワガタにはさまれたように、そしてワニにかまれたようにいたくなってもおわりまでがんばってはしりつづけたようすが、よくかけています。
ゴールちかくで「そんなことは・・・ありませんでした。」にしょうまくんのきもちがよくあらわれています。
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写真は下の子と一緒に走った時のものです。
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by housi216 | 2006-09-07 23:27 | 振り返ってみるのもいいさ~

『山登りは最高』

時代は1997年~
息子が小学校5年生の時に書いたものです。v(^-^)

 『ぼくは、よく山登りをします。山の頂きに立ち、下の街を見下ろす時、自分が神様になったみたいで、とても気持がいいのです。
 十月二十五日と二十六日の二日間、ぼくと、お父さんと、山の会の人たちとで、大みね山おくがけ道南部じゅう走をしました。
 今まで、いくつもの山に登ってきたけど、ここが一番心に残った山でした。

 十月二十五日 土曜日 晴れ
 午前六時に、しゃかが岳の登山口・旭口にむけて、みんなで、県事務所前を出発しました。テントで泊まる事になっていて、ザックに道具をつめていくと、他の荷物があまり入らなくなったので、最小限必要なものしか入れませんでした。
  午前九時半ごろ、登山口に着いて、お父さんたち、車の運転手さん三人は、下山する場所まで、車を走らせて行きました。ぼくたちは、かわった植物を探したりしながら、散歩をして待っていました。
 午後一時半ごろ、やっとMさんのパジェロに乗って、お父さんたちがもどって来ました。「車でこんなに時間かかるんやったら、だいぶ歩かなあかんのやろうなあ。」と、少し不安になってきました。
 いよいよ出発です。ザックは、いつも山に登る時より、ずっと重かったので、
「重いよう。」
と言いながら、でも頑張って歩きました。
と中で、
「あっ、あそこにしかがおる。」
とだれかが言ったので、
「えっ。」と見ると、しかが二頭、ならんで、山のしゃ面を下っていきました。
「ピー、ヒョロロー。」
と鳴いているのを聞いて、ぼくにはまるで、トンビが鳴いているようで、不思議な気がしました。
 テントを張ったのは、深仙の宿という場所です。深仙の宿と言うぐらいだから、ね泊まりの出来る山小屋だと思っていたのに、そこには、小さなひなん小屋と、お堂しかなくて、テントも、ぽつん、ぽつんと張っているだけでした。おまけに、今にもこおってしまいそうなくらい寒かったので、今まで着ていた服の上に服を着て、その上にジャンパーまで着こんだのに、それでもまだ寒くて、ガタガタふるえていました。
 風もきつくて、他の人はお堂でねることになりました。ぼくとお父さんは、せっかく持ってきたんやからと、テントを張ることにしました。
 暗くなる前に、メンバーのうち四人で、しゃかが岳の頂上を目指し、歩き始めました。だんだん、体がポカポカあたたかくなってきました。
「なんじゃ、こりゃ。」
頂上に着くなり、ぼくはおどろいてしまいました。ぼくの身長の四倍ぐらいある、おしゃか様の銅像が、目の前にでんと立っていたのです。
「この銅像は、地元の強力が、一人でかついで登ったんやと。」
と、お父さんに聞いて、
「こんな大きな物を、こんなところまでどうやってかついで登ったんやろう。ほんまにすごいなあ。」と、ぼくは感心しました。
 空はすっかり暗くなり、数えきれないほどの星が、宝石みたいにきらきらとかがやいていました。ずっと見ていると、なんだか空へすいこまれそうな気がしました。このまま、ずうっとここにいたいと思いました。でも、寒くなってきたので、ヘッドランプのあかりをたよりに、今来た道をもどり、シュラフにもぐりこんでねました。

 十月二十六日 日曜日 くもりのち晴れ
 朝起きて、テントの中で、ガスバーナーを使い、ラーメンを作って、食べていると、
「翔馬、見てみい、ご来光や。」
と、お父さんが、テントのまどみたいな所から、外をのぞきながら言いました。
ぼくは、今まで白山や白馬岳に登った時に、朝早く起きて、ご来光を見に行ったけど、くもっていて、一度も見ることができなかったので、「次に山へ登った時には、ご来光が見たい。」と思っていました。
「見せて、見せて。」
と言って、のぞいていると、真っ赤な太陽が、山と山のすき間から、どんどんのぼってきました。太陽は
「おうい、みんな、朝がやって来たぞう。今日も一日がんばろう。」
と言っているようでした。
 テントをかた付けて、出発したのは、六時半ごろでした。風がびゅんびゅんふいてきて、ふっ飛びそうになりながら、必死に歩いていると、S会長が、
「年をとってかみの毛が減ってきたら、ぼうしがすべりやすなるなあ。」
と、手でぼうしを押さえながら歩いていました。Mおっちゃんも、ぼうしをにぎりしめて歩いていました。
 休けいの時、Hおばちゃんが、きのうみた夢の話をしてくれました。
「寒い、寒いって言いやったら、祭りの化しょうみたいなのをした女の人が二人、おどりながら出てきて私の服持っていってしもてん。それ、私のやから返してよ、と言っても、何も言わんと持って行ってしまってん。」
その話を聞いて、「そんなに寒かってんなあ。」と思いました。ぼくらは、テントでねたけど、シュラフがとてもあたたかくて、気持よくねることができました。
 と中で、木がたおれていて、のりこえなければ通れないような所や、くさり場がいっぱいあったり、くまのつめあとも見つけました。
 持経の宿をすぎてすぐの所に、とても大きな木が、たくさん生えていました。木が大きいせいか、落ちているどんぐりも特大でした。「どんぐりのせいくらべとは、みんな同じようなことを言うけれど、これと日置のどんぐりをくらべると、ずっとこっちの方がおおきいなあ。」とぼくは思いました。
「行仙岳山頂まで十分」と書いた、道しるべの所で、休けいをしました。行仙岳は、ぼくらがこの日に登る、最後の山です。
「あとちょっとしかないから、楽しんで登らなあかんなあ。」
と、S会長が言いました。
 ところが、Tおばちゃんたちが、
「頂上に一番のりしよし。」
とぼくに言って、
「翔馬君が通ります。道を開けて下さい。」
と大声で言ったので、ぼくは、走らないわけにはいきません。坂がきつかったので、あせびっしょりになりながら走りました。しんどかったけど、一番初めに頂上に着けたので、とても気持が良かったです。
 頂上には、ぼくが見たおしゃか様の銅像の何十倍もある、NTTのパラボラアンテナが建っていて、これにもおどろかされました。
 それから、みんなの前で、大人の中で一人だけ小学生なのに、長い道のりをがんばって歩いたという事を、表しょうしてもらいました。表しょう状の代わりに、Nさんが、エベレストの写真がのってる、テレホンカードをくれました。ぼくは、
「ありがとうございます。」
と、大声で言いました。
 でっかいおしゃか様の銅像が建っていた、しゃかが岳、ずうっとむこうに、うすぼんやりと見えていました。「よう、ここまでこれたもんやなあ。」と思いました。
「よくがん張った。」自分でも思いました。

家に帰ると、
「翔馬は、山から帰ってきたら、いつもいきいきした顔したある。ひと回り大きなったような気がするわ。」
と、お母さんに言われました。
「しんどいだけやのに、山登りらして、なにが楽しいんかなあ。」と思う人もいると思います。 
 でも、山の空気をすい、自然を見ながら、がん張って歩くのは、とても気持がいいものです。
 山では、人に出会うと必ずと言っていいほど、あいさつをします。自分から
「こんにちは。」
と言うのは、少し勇気がいるけど、言ってもらうと、
「さあ、がんばるぞ。」という気持になれます。
ぼくは、これからも山登りを続けていこうと思っています。』
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【評】 すがすがしい山の空気を感じさせてくれる作品に出会うことができました。
「しんどいだけやのに何が楽しいの。」とたずねられたことも何度かあったのでしょうね。
 翔馬君は、今までに経験したことのないご来光を見て、さらに山登りに取りつかれたのではないかと思えます。
 会話文も生き生きと表現されていました。
 これからも気をつけて山登りにちょう戦してみて下さい。
 
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by housi216 | 2006-09-04 01:26 | 振り返ってみるのもいいさ~

1998年8月20日

♪振り返ってみるのもいいさ 道草くうのもいいさ~♪♪
過去への旅立ち
時代は1998年~

富士山に登ってきました
おやじの初盆も済ませ、久しぶりの山登り。
8月20日に長男(しょうま翔馬、11才)と次男(げんた彦太、7才)と3人で富士山に行って来ました。富士山へ私自身は4度目でしたので、あまり気乗りはしなっかたのですが、子供達には、やはり1度は登ってみたい日本一の山なのでしょう。
私が初めて登ったのは、ちょうど20年前でした。地元の青年研修ということで、半ば強制的に参加させられ、同和研修などの締めくくりとして、富士登山がありました。山小屋での混雑と、頂上ですごく寒かったのと、ご来光がすごくきれいに見えたのが記憶に強く残っています。

2度目は、今から7年前の富士登山競争の時でした。登山経験もそんなになかったのですが、少しばかり北アルプスを中心にウロウロしていたので、山としての富士山には、あまり興味がなく、ちょっと馬鹿にしていた様なところがあったけど、走ってみてあの山のでっかさに感動しました。富士吉田の市役所の前がスタートで、市内を走り抜けて吉田口登山道を通って頂上まで、21kmを制限時間4時間30分以内(途中時間制限の関門あり)に着かなければ失格となるのです。
5合目までの暑さに参ってしまい、体調も最悪だった私は、何度も立ち止まって、もうやめて帰ろうと思いましたが、何とか意地だけでゴールしました。
ゴールしたときは、嬉しくて久しぶりに、やったぞう…という気持ちになりました。

3度目は、長男が1年生の時。ばあちゃんと忍野八海の民宿で泊まったりして、観光ドライブを楽しんでいたのですが、何かの拍子に、冗談から駒という感じで、富士山にいってみようということになり、子供は、半ズボンにTシャツで、私もTシャツに車に放りこんであったウインドブレーカーを腰に巻いて、登り始めました。ばあちゃんは6合目の小屋で待っているというので、富士山の山小屋には,たいていのものはあるし、お金さえ持ってれば、何とかなるだろう。天気もいいし、まあ行けるところまで行って、だめならすぐに引き返そうと言いながら快調に登っていたのですが、8合目あたりで、高山病の影響か、子供の足取りおぼつかなくってきた頃、天気が急変し、直径1㎝位の雹が降ってきて、えらい騒ぎになってしまいました。
子供を抱きかかえ、岩陰にうずくまって、雹の直撃を避けました。ほどなく雹は止みましたが、急に風が強くなり、寒くなってきて、子供にウインドブレーカーを着せて、私はTシャツのままで、逃げるように下山しました。ちょっと無謀な富士登山でした。
今回の富士登山は…

8月19日 5時30分
新聞配達のおばちゃんに手渡しで新聞をもらい、自宅を出発。土、日を挟んで6日間休みをとってあるので、富士山に登った後、南アルプスの北岳に登ってやろうと、ひとり地図などをみてたら、嬉しくなったきて、殆ど眠れず。30分も寝たであろうか…。睡眠不足のまま、車を走らせる。
17時30分途中何度か渋滞に巻き込まれながらも、富士宮口新五目到着。車のメーターは638㎞。天気もあまりぱっとしないせいか、駐車場も空いてる。雨が時々降っては止むという状態で、とても寒い。売店をウロウロしてから妻に電話すると、「絶対子供達に無理をさせないでね」と念をおされる。天気も悪いし夕べ寝ていないので、車で寝て、明日の朝早く出発しようと子供達と相談して、持参の缶ビールを3本空ける。22時過ぎ、子供達の話し声で目が覚める。車が狭いし、次から次にとやって来る車の音や、人の話声で全然寝れん、との事。以前乗っていた車ならワンボックスカーだったので、移動民宿と称して、よく布団を積み込んで出かけたのだが…。深夜登山に出発の人たちを見つけて、「僕らも今から登ろう!」とすごく元気だ。そうか、こいつらは来る途中、車の中でずっと寝てたもんな…。雨もあがったみたいやし、まあええか…、我は今はガタガタだが、元ウルトラマン。何とかなる…。
22時20分
富士山表口五合目 標高二四〇〇メートルより登山開始
 帽子をかぶりヘッドランプを各自つけて、自分のざっくに必要なものを詰め込み、いざ出発。ちなみに子供達のザックの中身は、和歌山のスポーツ店で買ってきた600円の酸素(富士山では土産としての付加価値がつき、1500円~2000円する。)、雨具、タオル、下着の替え、長袖の少し厚手のトレーナー、防寒着、手袋、お菓子類、ジュース500ml×2本など。私のは、ザックカバー、雨具、下着の替え、トレーナーの替え、タオル、防寒着、シュラフカバー、手袋、救急セット、使い切りカメラ(デジカメと一眼レフを持っていこうと用意していたのに、家に忘れてきた、残念。)みんなの朝食のパン、みんなの非常食及びビールのつまみ各種、家の蛇口から出てきた日置川の水3リットル、ビール350ml×3本。桃の天然水500ml×2本、磁石など。ヘッドランプで自分の足下を確かめながら、ゆっくり歩く。雨は降ってないとはいえ、稲妻が凄い。ピカピカ…、ゴロゴロ…、なんとも気色悪い、ええんかいなぁ…、と思いながら、歩き続ける。上の方見ても、下の方を見ても、けっこう登っている人がいる。さすが富士山だ。最初は、子供も元気なので、他の人に追い越されると、負けまいと急ごうとする。私が先頭を行き、長男がラストで、彦太をコントロールする。早く歩きたがるのは、今のうちだけだろうが、とにかくゆっくり歩くことだけを心がける。6合目を過ぎた頃から、小雨が降ってきたので、雨具をつける。彦太がしんどそうだ。泣き言が増えてきた。ちょっと歩いたら、すぐ休憩をしたがる。彦太のザックを私のザックの中に押し込む。少し大きめのにしてきて正解だった。この調子で頂上まで、持つんだろうか…。心配である。
23時50分
 新七合目の小屋に着く.「ここで泊めてもらうか…?」と聞くと、「うん、ここで泊まる。」とのこと。入り口を開けて,横になっていた小屋番の人に、お金を払い手続きを済ませ、奥の方の蚕棚の様な部屋に案内してもらう。がらがらに空いていて貸し切り状態、ラッキーだ。布団は湿気ているが、贅沢は言えない。シュラフカバーを出そうかとも思ったが、邪魔くさいのでそのまま寝ることにする。夜中に何度も目が覚める。4時過ぎに翔馬が起きてきて、ご来光は何時頃かと聞いてくるので、見られる位置にあるのかどうか分からなかったけど、「4時半やと思う」、と答える。時間になったら起こす約束をして、寝かせる。4時半前に小屋の外に出てみるが,ガスっていて真っ白で、なにも見えない。ご来光など、拝めそうにない。翔馬も気にしているのか、起きてきたが、ゆっくり寝るように言う。5時半過ぎに、翔馬も彦太も起きてくる。家では寝坊なのに、やはり緊張しているのか…。パンとジュースの朝食をとり、トイレをすませ、雨具をつけてザックを背負う。
8月20日6時10分
新七合目の小屋出発。気圧にも慣れたのか彦太の元気が戻った。と思ったのも少しの間だけでした。あまりぐずぐず言うので、「おまえだけさっきの小屋に残って、待ってるか?お兄ちゃんと登って、帰りに迎えに寄ったるから…。」と突き放すと、泣き出してしまいました。「ごめん、ごめん、冗談や。下りる時は、みんな一緒や、もう無理やったら、かまわへんねで、もう下りてもええけど、友達にも富士山に登るんやて、話してあるんやろ!途中までしかいけなんだっていうことでもええんか?」と言うと、行けるところまで、頑張ってみるとのこと。「頂上へ行けても、途中で下りても、どっちにしてもみんな一緒や、家族やから、みんなで力を合わせて最後まで頑張ろう!」と珍しく格好いいこと(当たり前のこと)を言う。
7時10分
元祖七合目 気温9℃ 少しの間晴れ間が出て、雲海を見下ろせる。泊まった小屋も見えている。
8時30分
八合目 標高3250m 高山病の予防には、水分補給が大事なので、何度も給水を勧めるが、気温が低いせいか、あまり水分をとりたがらない。翔馬の方にも高山病の症状が現れはじめる。誰だって三〇〇〇メートル超えたら、高山病になるさ、ゆっくり休みながら行けるところまで行こう。少し歩いては、休んで酸素を吸ったり、深呼吸させたり…。名古屋から来たという老夫婦に子供達が励まされている、その人の話では、昨日泊まった小屋で、小さな子供を連れた人が、夜飛び込んできて、子供は下着までビショビショに濡れていて、唇が紫になって震えているし、着替えを持ってないので、小屋でTシャツをわけて貰い、パンツはそのおばあさんのをあげたとか。
お昼頃着くつもりで、12歩、歩いたら、一度止まって、深呼吸してごらんなさい、それを繰り返して、だましだまし無理せずに登っていったら、知らぬ間に頂上につけるから…。とそのおじいさんに教えられる。
「めざせ山頂日本一」の看板も彦太には目に入ってない様子。
10時00分
九合目 標高3460m とにかく“だましだまし”歩くしかない…。
11時05分
九合五勺 3590m 彦太の元気が戻ってきた。なんかもう気持ち悪いのが、とれてきたみたいやとの事。翔馬はさっきから、お腹が気持ち悪いとのことで、かなりしんどそうだが、そこは六年生。「ざっくを持ったげる」といっても、「大丈夫行けるから。」 “山頂まで30分”の看板に彦太のガッツポーズ「よっしゃあ!」 こいつ元気なら、自分のザックくらい持てよ、と言いたいが、まあ何とか、自分の力で登ってくれるだけでありがたいかな…。胸突き八丁という最後の難所も、視界が悪いせいか、頂上のことが気にならず、気が付いたら最後の鳥居がすぐそこに…。
11時50分
頂上 やっと着いた。今日で閉鎖するという郵便局へ入って、表彰状の形をした登頂証明書を買う。裏がはがきになっていて、300円切手を貼っているので、そのまま送れるとの事。日付のはいったスタンプが、消印になってるらしい。二人分買って、自分宛にはがきを出させる。私と同年輩の人が、局の人に話しかけている。「学生時代、私もここでバイトしてたことがあるんですよ。20年ちょっとまえかな…。すごく懐かしいんで、つい声をかけてしまってごめんなさい。」
郵便局を出て、『大』がしたいという翔馬を、雨の中待っていたら、なかなか出てこず。やっとでてきたと思ったら、変な顔をしている。「どうした、出んかったんか」と聞くと、「出たけど、うんちうしろに付いてない?」と後ろ向きになる。翔馬の話によると、とにかく便所が汚くて、うんちが便器からはみだすくらい、盛っていたとの事。
山小屋に入り、子供達は、1000円のカレー(袋に入っていて、お湯であたためるやつ。)を、私は800円のラーメンを頼みました。ガスバーナーをもって来ようかとも思いましたが、この、高くてまずいカレーも印象に残るだろうと思い、お金を払うことにしました。翔馬はぺろっと平らげたのですが、彦太はあまり食べたくないとのことで、殆ど私がいただきました。ご飯も以外にうまく炊けていて、まあまあでした。
小屋に荷物を置いて、剣が峰を目指す。横殴りの雨の中、10メートル先も見えない。「靴に水がしみ込んできて、冷たくて痛い…。」と翔馬。まるで氷水の中を歩いているようだ。上り坂で雨が川のように流れてくる。靴が滑って歩けない。彦太の手を引っ張って、風に飛ばされないように、必死に歩こうとするが、ちょっと無理だ。こんな天気じゃ、しょうがないやと自分に言い聞かせて、戻ることにする。時計に付いている高度計で3765m。小屋に戻り、記念に富士頂上と書いたバッチなどを買う。(五合目の売店に売っているバッチには、五合目としか書いていない。)
13時10分
下山開始 雨の中ただひたすら、来た道を下るのみ…。
八合目あたりから皮肉にも天気も回復してきて、子供達も元気になってきました。
六合目ちょっと上のほうで休んでいると、彦太より小さな男の子と、お父さんの二人連れが、下りてきました。頂上まで行けたのかな、と思っていると、別の人が「頂上まで行って来ましたか?」と尋ねました。お父さんは、「いや、七合目でだめでした。また今度挑戦しますよ…、今度は一人でこようかな…」プライドを傷つけられたのか、単にしんどかっただけなのか、その子供は、終始「むっ」としていました。
お母さんがお父さんのザックと二つ担いで、お父さんは割と大きな子供をおんぶして下りてる親子。色々な家族のドラマが繰り広げられていました。
16時40分
五合目着 お疲れさん!そういえば、寒くて頂上でもビール3本持っていったのに飲むの忘れてた。水も3リットル、和歌山から持ってきて、担いで上げて、そのまま、おろしただけだった。近所の家におみやげを買って霧の中車を走らせる。富士宮市で泊まるところがないか、電話で捜すがどこもいっぱい。富士市に行きやっと見つける。温泉がついていて割と値段も安かった。
当初予定していた、№1の富士山、№2の北岳連続登頂の話も消え、何処の遊園地にするかとの話になる。
8月21日
日本ランド遊園地からくっきり富士山の全容が見える。昨日の天気は一体何やったんだろう…。まあ、山はこんなものよ…と諦め、フリーパス券を買って、遊ぶ。建物も乗り物もちょっと古くて、遅れてるかな…というとこもあるけど、怖がりの彦太にはちょうどいいかな。しばらくゴーカートとか、一緒に乗り物に乗ったりしていたが、巨大迷路あたりから、疲れてきて、缶ビールを飲んで、ベンチでごろ寝。子供はこんなところではすごく元気だ。夕方5時過ぎまで遊んで、さあ帰宅…。
裾野ICから東名に乗り、バンバン飛ばす。滋賀県にさしかかるころから、このまま帰るのが、惜しくなって子供達と相談。以前から行ってみたいと言っていた、広島県の大久野島へ行くことにする。兵庫県宝塚市の姉の家に急遽泊めてもらい、(多賀SAで泊まろうと思ったが、空室がなかった。)22日は広島でお好み焼きを食べ、原爆ドームなどを見学、その日のうちに大久野島にわたる。大久野島は周囲4.3㎞の小島で、かつて日本軍により、毒ガス製造の基地として、機密保持のため、地図からも消された島も、今は、島全体が国民休暇村という平和な観光の島である。300羽を越すうさぎが放し飼いにされ、愛くるしく迎えてくれます。翔馬の夏休みの自由研究は大久野島についてだそうです。23日はレンタサイクルで島を一周したり、のんびり過ごす。帰りに明石海峡大橋を渡り、淡路島から泉佐野へ。家に着いたときは日付が又変わっていました。車の走行距離も2000キロメートルを超える、行き当たりばったりの旅行だったけど、何となく、こんな旅行がしてみたかったので、楽しかったです。
 富士山、標高3776メートル。2番目の北岳が標高3192メートル。
3番目の奥穂高岳で標高3190メートルだから、いかにずば抜けて高いかよくわかる。
最後に、富士山について…深田久弥さんが日本百名山に書いている富士山の一部分を紹介します。
「八面玲瓏という言葉は富士山から生まれた。東西南北どこから見ても、その美しい整った形は変わらない。どんな山にも一癖あって、それが個性的な魅力をなしているものだが、富士山はただ単純で大きい。それを私は「偉大なる通俗」と呼んでいる。あまりに曲がないので、あの俗物め!小天才たちは口惜しがるが、結局はその偉大な通俗性に兜を脱がざるをえないのである。小細工を弄しない大きな単純である。それは万人向きである。何人をも拒否しない。しかし又何人もその真諦をつかみあぐんでいる…富士山は万人の摂取に任せて、しかも何者にも許さない何者かをそなえて、永久に大きくそびえている。」
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by housi216 | 2006-05-10 00:38 | 振り返ってみるのもいいさ~